高松です。
自伝的に「ポテンシャルを発揮するカギ」をお伝えする第2回です。
私がこれまでの人生を通じて発見したポテンシャル発揮のカギは、経験的な裏付けに限らず、きちんと検証もしています。
ですから、その分、話しがマニアックだったり、「高松の人生には興味ないよ」という方にはつまらないでしょう。
その場合は、このページを即、閉じてください。
私は自分と世界観や価値観を共有できる人だけ一緒に生きていく、応援していくと決めたので私の世界観や価値観に共感できない方は、遠慮無く立ち去ってください。
人生の時間は限られています。お互い無駄な時間を省きましょう。
さて、
ここから話しの本題である前回の続きです。
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→前回はこちら
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私は25歳で経営コンサルタントへ奇跡の転身を果たしました。
〝奇跡〟というのは、「25歳の若造が経営コンサルタントという仕事ができるはずはない」という世間や転職エージェント、採用してくれた会社の役員たちの考えをひっくり返すことができたことです。
少し考えれば当たり前の話しですが
20代半ばのまだ社会人経験が浅い若輩が、50代以上の人生経験豊富な経営者にアドバイスをするのです。
普通に考えればできるはずがありません。
ただ、私は残された人生を後悔なく生き切る(余命2年)と決めていたので、世間の見方に従って諦めることなど出来ませんでした。
「これまでの25年間は、脆弱な自分を忌み嫌い、そんな自分を克服しようと必死で闘い、誰からも理解されずにきた。そんなちっぽけな自分がちっぽけなままこの世を去るなんて、悔しくて死にきれない。」と自分自身への強い怒りと悔しさで自分の心が満ちていたからです。
もう怖いものなど何一つありませんでした。
貯金もあまり無く、しかも転職先も決まらないまま
退職を上司に伝えました。
確か上司に伝えたのは2月だったと思います。
「3月末で辞めさせてください。」と。
幸い、私がプロジェクト管理を担当したITシステムは完成していましたから、引き継ぎも容易でした。
上司からは何度も「本当に辞めるのか?もし、気が変わったら残ってもいいんだぞ?」
「行き先もないのに大丈夫なのか?」
「また戻ってきたくなったら俺に連絡しろ。またここで働けるようにしてやる。」
上司からはとても温かい言葉をもらいました。
このとき、はじめて人に優しくしてもらったように感じて嬉しかったことを覚えています。
それでも、私の決意は揺らぎませんでした。
結局、東京を中心に転職活動を続け、10社以上のコンサル会社の入社試験を受けました。
外資系のある有名コンサル会社の一社だけは、酷い言葉を言われて追い返されましたが。
それ以外はいい線までいくのですが、どうしても最後の面接で落ちてしまいます。
「やはり、キャリアが浅いからか…。」
体調の悪さを押しながら(病気を隠しての)転職活動。
しかも、先が全く見えない中での活動でしたので何度も諦め掛けました。
でも、
「もう諦めようかな」という思いが心に浮かんでくるたびに
「いやだ!諦めたくない!」という思いが湧いてきて
諦めることができませんでした。
途中、「コンサルじゃなくても良いんじゃないか?」
「経営企画なんてコンサルみたいなものだし」と
大手メーカーの経営企画の入社試験を受けたりもしていました。
何社か内定をいただきました。
有名企業の経営企画。ここで決めれば、将来は安定でした。
しかし、
どうしてもコンサルへの道を諦め切れませんでしたので全て内定を辞退しました。
退職から3ヵ月。諦めずに活動を続け。
貯金が底を尽きてきた頃、奇跡的にメーカー系のコンサル会社に採用が決まりました。
もちろん、即、入社を決めました。
そして、このとき既に私の病気は消えていました。
この体験で私が学んだことは次の3つでした。
『誰に何をいわれようが、自分の人生は自分が創ると決めることで他人や社会からのコントロールを脱し、自由な人生がはじまる。』
『自分に正直に生きることが、生命力を高める。』
『心と行動を一致させることで驚くような力を発揮できる。』
病気を押しての転職活動は、孤独で大変でした。
友人にも会社の同僚・上司にも病気のことは隠して退職したので、
「いまの仕事が嫌になったのだろう。」というくらいに思われていたでしょう。
私から連絡をとることもしませんでした。
連絡をとると弱音を吐いていまいそうでしたから。
独りで最後まで闘い抜きました。
だからこそ、この体験を通して得られた学びは
私にとってより価値あるものになったと思います。
さて、今回はここまでにしたいと思います。
次回は、経営コンサルティングの現場での話しを書きたいと思います。